12月5日、私は高尾山へ回峰行、そして滝行をさせて頂きに上がりました。
私の尊敬する尼僧の先輩たち5人、そして先達を務めてくださる高尾山の山伏2人。
不安と緊張に少し胃を痛めながら山へ足を降ろしました。
まずは最初の心経法楽。このときに唱えた般若心経は、本当に本当に力強かった!!
これから・・いざ!!その心がそのまま声となり、響きとなり全身に力と勇気を与えてくれました。
あれほどぴったりと人と人の声が揃うことはそうそうないでしょう。
これほどまでに「共鳴」を感じたことはありませんでした。
そうして山を歩き、先輩たちの「六根清浄」の声についていくように必死に唱えました。
「六根」、それは、般若心経にも出てくる
眼根(視覚)
耳根(聴覚)
鼻根(嗅覚)
舌根(味覚)
身根(触覚)
意根(意識)
美しい紅葉や澄んだ川の流れを目にしながら、私に美しいものを捉えることのできる目があってよかった・・・。
そう思ったり、
または、人の身なりで判断してしまう愚かな自分に気づかされたり。
良い車に乗って高価な洋服を纏いいつもいつも高らかに笑っているその人を羨ましいと思ってしまう。
自分の目指すべきはそこ??でも果たして本当に豊なのだろうか。
違いました。
愛する大切な人に笑っていてもらえることが豊なのです。
回峰行を通して、私はそこに気づくことができたように思います。
六根、普段自分のなかで意識することの少なかった教えを、深く深く考えながらの山登りでした。
そして、滝行。
身口意の行いそのものです。
先導さんのご法話は僧侶たる自分の神髄に大きく響きました。
修行とは、
行を修める、と書く。
しかし、それでは自分だけのものではないか!?
「修めたものを行う」
これが本当の修行なのだ。
驚きました。
私は自分のことしか考えなかったと気づきました。
滝に打たれて回峰行をして、きっと少し成長できるだろう!!
そんなことばかり考えてしまっていました。
違いましたね。
この言葉を胸に少しでも伝えられる何かを得たい、そう願い滝へ向かいました。
寒い寒い外気、裸足で岩肌を歩いていると、足から頭まで凍りそうな、そんな冷たさでした。
掃除をして、体を清めて・・・。
ご真言を唱えながら右足、左足、右手、左手、そして頭に水を掛けます。
頭に水を掛けるときは、かなりの気合いが必要でした。
「寒い中、水をかぶるって、何かに反してるような気がする」
そんなことを呆然と思いながら大声を出して(勝手に出ました)ご真言を唱えました。
そして滝に向かう前に、三礼です。
ずぶぬれになった白衣を纏い、ひじ、足、額を冷たい冷たい岩の上に付けていきます。
それを3回。
薄暗い滝場、勢いよく流れる水の音、そして先輩の大きな心経を唱える声・・・、
不安?怯え?震え?もうもう何とも言えない精神状態にありました。
しかし、先輩の戻ってきたときの顔は、最高に晴れやかなものでした。
おぉ!!これは凄い!
そう思い、いざ、滝へ向かいました。
向かいましたところ、予想以上、それ以上に滝の水が痛いのです。
指導の下、息も絶え絶えになりながら大声で唱ました。
極度の興奮状態で冷静さを失いかけた私を支えてくれたのは、先導さんの「印」でした。
私の目に入るよう何度も何度も力を入れて印を結んで下さいました。
本当に本当に心から感謝しました。
もう無理や・・・、そのとき、力強い手の印を見ると不思議と体に、腹に、力が漲ってきました。
この方に教えてもらうことができて良かった、心からそう思いました。
それからはもう不思議と滝に入る前の「寒さ」も感じず、というか何も感じずに、
穏やかな心で着替えを済ませることができました。
滝が終わり、護摩を頂き、山を降りました。
山を降りた時には「達成感」ではなく、「恍惚感」が私の体を支配していました。ただただ呆然としていたのです。
強い光ではなく、静かで穏やかな光が私のすべて、六根を照らしてくれているかのようでした。
私の知る言葉では、この気持ちや感覚がとても陳腐なものになってしまうようですこし残念ですが、得も言われぬ気持になったことをお伝えしたいです。
そして思ったことは、
「私という命は、それはそれはちっぽけなものだ。」
ということ。
滝に入る前はもっともっと凄いことに気づけるのではないかと期待していたのですが、結果思ったことは、
「自分のちっぽけな命」
なのです。
なんだか不思議な気持ちになりました。
木の肌は光を受けて輝いています。
遠くの富士山は雪化粧に、美しく凛とした姿を見せてくれています。
足元の落ち葉はかさかさと音を立て、赤や黄色の切なさをを風に乗せて遊んでいます。
地球は自転と公転を繰り返し、時を刻んでいます。
水は重力によって宇宙にこぼれることなく、住まう我々に恵みをもたらしてくれています。
なんだか不思議だったんです。
私はお寺の為に身をささげ、そして必死になって粉骨砕身して頑張るんだ。
生きる限り捧げ続けるのだ。
これが私の根本にある心だったのに、そんなのは全くの無意味なものと叱られてしまったような気がしました。
血族の有無に関わらず子子孫孫連綿と受け継がれるこの歴史の中で私に、自分に、この愚か者の迷いの多い衆生に、何ができるだろう。
そう、できることなんで何もないのだと知りました。
流れる時の中、何にも反することなく自然に自然に生きること、
それこそが私のあるべき姿なのだと深いところで教えて頂いたように思います。
今まで、私は何に抗って生きてきたのだろう。
ずっと抵抗しながら刃向いながら生きてきたような、そんな思いがしました。
そんなことを考える中、高尾の高僧よりお護摩の前にご法話頂きました。
「修行に来れるこの環境に、家族に、そしてその修行ができる健康な体に感謝していますか?」
その問いに、私は胸が熱くなりました。
ご法話下さり教えて教えて下さって、ありがとうございます。
先達を務めてくださって、ありがとうございます。
優しく支えてくれた先輩たち、本当に本当にありがとうございます。
そして、
私の妹として生まれてくれた妹、ありがとう。
お父さん、ありがとう。
お母さん、ありがとう。
そう、私の命は「ちっぽけ」ではなく、「小さな」命だったのです。
「小さな命」は何故に小さいのかな??
きっと心からの感謝ができていないからなのだと思います。
私という人間は、1人では何もできないのに、迷惑をかけて生きているのに、ちゃんと感謝できていなかったのです。
小さな命でも共鳴し合えば大きな大きなものになるのですね。
草木と、人と、風と、地球と共鳴し合えば尊い尊いものになるのですね。
大変なことの多い家族だったけど、私の命をこの世に授けてくれて、
本当にありがとう。今初めてそんな風に思えたような気がします。
この行を通して私が得た心は、修行に行かせてくれたパソコン教室の会社の方々への、御縁を頂いた方々への、家族への、そして両親への深く大きい「ありがとう」の気持ちでした。
お父さん、お母さん、ありがとう。
合掌
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