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老婆心 平成19年5月23日

Posted by on 2014年4月4日

私の大好きな言葉に「老婆心」があります。

老婆心、意味は
年とった女性が、度を越してあれこれと気を遣うこと。
転じて、必要以上に世話をやこうとする自分の気持ちを、へりくだっていう語。「―から言わせてもらえば」

とっても素敵な言葉ですね(*^_^*)
自分は相手にどう思われようとも、煙たがられたり疎まれたりしようともただただ心配で気遣う・・・。
深い慈しみの心こそ「老婆心」なのだな、
私はこんな風な解釈をしてしまっています(^^)

この言葉に接すると、つい思い出してしまうニュースがあります。

それは、2006年に起こった悲しい悲しい「介護殺人」です。
あれから何年も経っているのに、決して忘れることのできないニュースなのです。

ご紹介させて下さい。

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【事件概要】

 2006年2月1日未明、京都市伏見区の桂川の遊歩道で、区内の無職K(当時54歳)が、認知症の母親(86歳)の首を絞めて殺害、自身も死のうとしたが未遂に終わった。

【父の言葉】

 京都市中京区の職人の住む一画で生まれたKの父は西陣織の糊置き職人をしていた。口よりも先に手が出るような厳しい人物であったようだが、Kは父親を尊敬していた。
 Kは高校卒業後、父の弟子となった。しかし呉服産業の不況により、35歳の時に職人をやめてホテルの警備員や電気製品の製造工、システムキッチンの組み立てなどに仕事を変えた。結婚はしていない。
 父親は1995年に80歳で亡くなり、この頃から母親に認知症の症状があらわれはじめる。事件から11年前のことである。
 2001年頃、母子は伏見区のアパートに引っ越した。親類の好意で、家賃6万円のところを半額にしてもらった4畳半と6畳間の部屋だった。
 母親の認知症は2005年4月頃から症状が悪化し、おにぎりの包み紙を食べたり、「キツネがいる」と言って天井を叩いたりした。
 真夜中に外出しようとしたり、Kが仕事に行っているあいだに徘徊して警察に保護されたりしたことも2度あった。
 昼夜逆転の生活になっているため、母親は真夜中の15分おきに起き出し、Kも疲れ始めていた。
 そんなことがあってか、夏ごろには介護保険を申請し、アパートの近くの施設でデイケアサービスを受け始めたが、昼夜逆転の生活は戻らなかった。Kは献身に介護し、7月頃には仕事を休職している。
 9月頃、工場勤めをしながらの介護に限界を感じたKは仕事を辞め、自宅で介護しながらできる仕事を探したが見つからなかった。12月には失業保険の給付もストップしている。
 区役所にもすでに3度相談していたKだったが、良いアドバイスは得られなかった。
 「生活が持ち直せるしばらくの間だけでも生活保護を受給できないか」と相談したこともあったが、「あなたはまだ働けるから」と断られている。
 (事件後、Kは唯一この社会福祉事務所の担当者にだけは恨み事を述べた)
 同じ頃、カードローンの借入も25万の限度額になった。生活費に窮するようになったKは、自分の食事を2日に1回にし、母親の食事を優先した。
 こういった苦しい状態になると、人は普通親類なり友人なりに頼るものである。しかしKはそうはしなかった。
 Kの心にはいつまでも父親が生前言っていた言葉が去来していたからだ。

「人に金を借りに行くくらいやったら、自分の生活をきりつめたらいいのや」

「他人に迷惑をかけたらあかん」

「返せるあてのない金は借りたらあかん」

【母子の悲しい旅】

 2006年1月31日、この日までに払わなくてはならないアパートの家賃3万円はどこにもなかった。手持ちの現金はわずか7000円ほど。
 Kは親族に相談することもなく、自分たちに残された道は「死ぬこと」しかないと思った。
 Kは自宅アパートをきれいに掃除をして、親族と大家宛ての遺書と印鑑をテーブルに置いた。
 その間、Kは何度も母親に「明日で終わりなんやで」と話しかけている。
 最後の食事はコンビニで買ってきたパンとジュース。
 電気のブレーカを落とすと、Kはリュックサックに死ぬためのロープ、出刃包丁、折りたたみナイフを詰めて、車いすの母と2人アパートを出た。
 2人が向かったのは、三条の繁華街だった。Kがどこに行きたいかと尋ねて、母親が「人の多い賑やかなところがいいなあ」と答えたからだった。
 1人300円の運賃を払って淀駅から京阪電車に乗り、三条京阪駅に着いた。
 駅を出ると鴨川が流れている。2人はしばらくこの川のそばで時間をつぶしている。
 やがてにぎやかな新京極通りをに向かった。この通りの入口にそば屋がある。
 Kがまだ子どもの頃、親子3人で食事をしたことのある店だった。しかし手持ちの金が多くないため、食事はしなかった。

【冷たい雨】
 
 夜、母子は伏見にいた。もう戻ることのできないアパートの近く、桂川の河川敷。
 次にどこへ行きたいかと聞かれて、母親が「家の近くがええな」と言ったからである。午後10時のことだった。
 2月1日。厳しい冷え込み。Kは車椅子の母に防寒具をかけてやった。それから何時間か過ぎた。

「もうお金もない。もう生きられへんのやで。これで終わりやで」
 
 Kは泣きながら目を覚ましたばかりの母に語りかけた。
 母親は「すまんな」「ごめんよ」と泣きじゃくる息子の頭を撫で、「泣かなくていい」と言った。

 「そうか、もうアカンか、K。一緒やで。お前と一緒やで」 

 「こっち来い。こっち来い」

 母に呼ばれたKが近づいたところ、額がぶつかった。

 「Kはわしの子や。わしの子やで。(お前が死ねないのなら)わしがやったる」

 その母の言葉にKは「自分がやらなければ・・・・」と思った。
 そして意を決し、車いすのうしろにまわってタオルで母親の首を絞めた。絞め続けた後、苦しませたくないために首をナイフで切った。
 Kは遺体に毛布をかけた後、包丁と折りたたみナイフで自分の首、腕、腹を切りつけ、近くにあったクスノキの枝にロープをかけ首を吊ろうとしたが失敗した。
 「土に帰りたい」と走り書きしたノートの入ったリュックサックを抱いて、冷たい雨の降るなか虚ろな表情で佇んでいた。
 通行人によって2人が発見されるのは午前8時ごろのことである。

【裁判】
初公判で「生まれ変わるのなら、また母の子として生まれたい」と述べたKの言葉。

ぼくの姿が見えないと名前を呼ぶのです。呼んではこちらへ寄ってくるのです。
12月の後半ぐらいから夜のトイレに起きるときに先に起きて、ぼくの横になっている寝間のところに来てはここへ入ると言い出すのです。
仕方がありませんので、おふくろと一緒に抱きあって寝ました。そういう状態がつづきました。
ぼくが台所で食事の用意をしていると、母は私を呼び、赤ん坊のようにハイハイをし、私のところに寄って来るのです。
それがかわいくてかわいくてなりませんでした。そして抱きあげると、にこっと喜ぶのです。抱いてやると、強く抱き返してくれるのです。
(Kの陳述)

母が子供に戻って行くのです。
私は母を「見守る」ただそれだけのことしか出来なかった。
私の手は何の為の手で、母を殺めるための手であったのか、みじめでかなしすぎる。
じっと我が両の手を見る。何の為の手であるのかと。
(最終陳述にて)

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このお話を、いろいろな所でさせて頂きました。
話の途中、何度話したか分からないのに涙がこぼれてしまいます。

認知の脳でありながら、最後の最後の老婆心。
心から、本当に心から「慈しむ心」を感じます。

そして息子さんは最後の最後までお母様を大切になさいました。
お金が少なくなると、食事を自分は我慢して我慢して2日に1回とり、お母様にはきちんと用意していたのだそうです。

何と尊い方なのでしょう。

私が二十歳の年、母がくも膜下出血になりました。
当時パソコンの講師をしていた私は、授業が終わり携帯電話を見て驚きました。
「自宅」からの着信が20件あったのです。
焦燥感に駆られながら電話すると「母危篤」の知らせが耳に飛び込みました。

忘れられない日です。

仙台にいた私はすぐに秋田に戻りました。

お医者様から危険を伴う手術である説明を受け、それでも母を元に戻してほしいと願い、手術をして貰いました。
まだ出家していなかった私ですが、ひたすらにひたすらに祈りました。

目を覚ましてくれない母のベッドの横で、

「おかあさん」

「おかあさん」

何度も何度も呼びかけました。

「おかあさん」

どうか死なないで、どうか私をおいていかないで、どうかどうか元に戻って・・・。

心から祈りました。

翌々日、母は目を覚ましてくれました。
空ろな目、そして言葉を話すことはできませんでした。

お医者様からはこのまま麻痺が残る可能性があるとの説明を受けました。

麻痺が残ろうとも、これで良かった、母の命が助かって本当に良かった、そんな風に思いました。

そこから介護の生活が始まったのです。
脳の手術のあとでしたので、母は強い認知症を患っているのかと思うほどに正常ではありませんでした。
身体を動かしてはいけないと言われているのに、暴れたり騒いだりして、大変な思いをしました。
寝ずの看病が続いていたのでつい、うとうとしてしまいます。
そんなときに母が起き上がったらもう、大変なことになってしまいます。
着物の腰ひもで私の腕と母の腕とを縛って、動いたらすぐ気付けるようにして付き添っていました。

どんなに大変でも、命があってくれたこと、母の声をもう一度聞くことができたこと、それだけでもう、充分でした。

当時まだ中学1年生の妹に寂しい思いをさせまいと必死で笑顔を作り、家族の食事の支度をし、病院で母の付き添いをしました。
まさか自分の子供より先に母のパンパースを取り替えることになるとは思ってもいませんでしたよ・・・。

そんな日々をすごしておりましたら、私の頭には大きな円形脱毛症が4箇所もできてしまいました。
そして二十歳なのにかなり年上に見られていました。

相当老け込んでいたのでしょうね、きっと。

しかし、甲斐あって、麻痺が残るといわれていた母もかなり回復し、だいたい元に戻ってくれました。
こんな素晴らしいことが起こってよいのか!?と思うほどに嬉しかったです。
父も今まで以上に仕事に精を出し、頑張りました。

それからしばらくして今度は祖父の肺がんが末期であることが分かり、自宅にて祖父と母の介護をすることになりました。
母とはリハビリで手をつないでの散歩、祖父には痰を吸引しオムツを取替え体を拭く、これを繰り返しました。

残念ながら祖父は、程なくして亡くなりました。
母は、今までのように元気になってくれました。

この私の伝え方、どうでしょう??
全部自分が苦労したような言い方ですよね。
実はこのとき影で支えてくれていた妹がいたのです。

私が悲しい顔をしていては駄目だ!!と思い、笑顔を絶やすまいと、精一杯に冗談を言ったり、妹の大好きなシチューを作ったりしていました。
妹と私はいつもどこにいくにも一緒でした。

周りのみんなから「姉妹ってこんなに仲の良いものなの?」と言われるくらいの仲良しなんです(*^_^*)

そして、気付きました。

めんこいめんこい妹が、私を支えてくれていたのです。
私が笑顔を作っていたのではなくて、妹に笑顔にして貰っていたのです。
私が尽くしていたのではなく、私が支えて貰っていたのです。

いつもいつもぷっくりしたほっぺで私を微笑ませてくれていたのです。

中学1年生の女の子がお母さんの病気の姿を見て嘆き悲しんだりせず、ただひたすらに私を支えてくれていたのです。
小さな妹のその一生懸命は私を強く強くしてくれました。

介護や看病は一人ではできません。
支え合わなければできません。

どうしようもなくなってしまう。

どうか隣の人に手を差し伸べてください。
ほんの少しでもよいのです。

今、まさに今、すぐ近くに苦しんでいる人はいます。

もうこれ以上悲しい殺人が起こらないように。
私もあのときもしかしたら同じことをしていたかもしれない。
支え合いませんか?

老婆心として、心からの慈しみで支え合いたいのです。

きっとできるはずです。

真言宗では「三密」を使ってこそ、仏になれると説きます。
三密とは、「身・口・意(しんくい)」のことです。

 ・「身」 身に印(いん)を結び
 ・「口」 口に真言を唱え
 ・「意」 意(こころ)に本尊を念ずる

この手は、この身体は何のためにあるのだろう。
きっと、きっと、今、息絶えんとしている人のまだ温かな身体を抱きかかえる、そのためにあるのかもしれない。
それが私の「印」なのかもしれない。

この口は、私の声が出す言葉は何を伝えたらよいのだろう。
もしかしたらたった一言で救われるその「本当の言葉」のためにあるのかもしれない。
その深く大きな慈しみの言葉が私の「真言」なのかもしれない。

私は何を心に思ったらよいのだろう。
今苦しんでいる人を心から慈しむということ、
それが私の「ご本尊様」なのかもしれない。

何のために?

そう、私にできること。

少し気づけたような気がします。

 ― マザー・テレサより ―

もし貧しい人々が飢え死にするとしたら、

    それは神がその人たちを愛していないからではなく、

          あなたが、そして私が与えなかったからです。

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